最近、 「耳が聞こえないのに美容室に来てごめんなさい」 という動画がバズっている。 少し前には 「耳が聞こえないのにコンカフェに来てごめん」 という動画も伸びていた。 まず前提として、 本当に当事者の本音かもしれない。 それを外から断定するつもりはない。 でも僕は15年間、 聴覚障害の方にダンスを教えてきて 一度も 「耳が聞こえなくてごめんなさい」 と言われたことがない。 むしろ多くの人は 聞こえないことをアイデンティティとして持っている。 だから僕は、 動画そのものよりも “構造”が気になっている。 なぜこの構図は伸びるのか。 自己否定 × 優しい健常者 この物語は強い。 感動が生まれやすい。 でもアドラー心理学で言えば、 ここには「課題の分離」が起きていない。 聞こえないことはその人の特性。 それ自体は悪ではない。 もし困りごとがあるなら、 それは社会側の環境設計の課題でもある。 なのに、 「聞こえない自分が申し訳ない」 という前提になると、 社会の課題が当事者の自己責任にすり替わる。 ここが危うい。 僕が一番心配しているのは このフォーマットが“伸びる型”として ミーム化すること。 SNS運用代行や動画クリエイターは 数字が出る構図を真似する。 ・障害があるのにごめんなさい ・できなくてごめんなさい ・迷惑かけてごめんなさい こういうテンプレが量産されたら、 無意識に 「まず謝る存在」 という空気が強化されていく。 アドラーが言う「共同体感覚」は 「私はここにいていい」と思える感覚。 もし社会の中で “まず謝ること”が前提になるなら それは共同体感覚を弱める。 断定はしない。 特定の動画を批判したいわけでもない。 でも問いは投げたい。 なぜ謝罪から物語を始めると 感動が生まれるのか。 それは本当に優しさなのか。 僕は 「耳が聞こえないのにごめんなさい」 がテンプレになる未来を止めたい。 謝らなくていい社会を作るほうに、 エネルギーを使いたい。 聞こえないことは、 謝ることじゃない。 #signlanguagedance #dance #signlanguage #美容室
(668時間)
(2026.03.13 19:28時点で取得) 72 コメント 72投稿から27日20時間6分後
(668時間)
(2026.03.13 19:28時点で取得) 38 シェア 38投稿から27日20時間6分後
(668時間)
(2026.03.13 19:28時点で取得) 228 保存 228投稿から27日20時間6分後
(668時間)
(2026.03.13 19:28時点で取得) 9 DL 9投稿から27日20時間6分後
(668時間)
(2026.03.13 19:28時点で取得)