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ぴーち まいける

旅先で撮り貯めて投稿してます。神社仏閣・城・仏像は大好物!他の名所も投稿してます。時々仏像動かしたり、柴犬・猫物も作ります。コメント&フォロー&いいね👍よろしくお願いします😆

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905 905回再生 投稿から45日16時間56分後(1,096時間)(2026.09.11 16:35時点で取得) 30日経過・確定

伊良湖岬(いらごみさき)灯台は、愛知県渥美半島の最先端に位置し、太平洋から伊勢湾・三河湾へと入る大型船舶の航海安全を見守り続けている歴史ある灯台です。 「日本の灯台50選」にも選ばれており、白亜の灯台と周りに広がる大海原の対比が非常に美しいロケーションとして知られています。 1. 地理的・航海上の重要性 伊良湖岬の沖合は「伊良湖水道」と呼ばれ、古くから潮流が激しく、暗礁が多い海の難所として知られていました。 名古屋港や四日市港といった重要港湾へ出入りする大型貨物船やフェリーが毎日数多く行き交うため、この灯台と周辺の航路標識は日本有数の過密水道の安全を支える極めて重要な役割を果たしています。 2. 建築と基本スペック ・初点灯: 1929年(昭和4年)11月20日 ・構造: 白塗円筒形(RC造/鉄筋コンクリート造) ・塔高: 約15 m(平均海面から灯火までは約16 m) ・光達距離: 約12海里(約22 km) ・構造の特徴: 海岸の波打ち際ギリギリに設置されているため、潮風や波浪に耐えうる堅牢な造りになっています。1960年(昭和35年)には大規模な改修工事が行われ現在の姿になりました。 3. 文化・観光的魅力 伊良湖岬灯台周辺は、自然と文学が融合した美しい景観スポットです。 ・恋路ヶ浜(こいじがはま)との連なる景観 灯台から東へ伸びる白い砂浜「恋路ヶ浜」は、「恋人の聖地」として認定されています。夕暮れ時には伊勢湾越しに沈む夕日と灯台のシルエットが幻想的な景色を作り出します。 ・島崎藤村の詩『名も知らぬ 遠き島より』の舞台 三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった三重県の「神島」が沖合に望めるほか、島崎藤村の有名な抒情詩『椰子の実』の着想の地としても知られています。 灯台のすぐ近くまでは散策路が整備されていますが、波が高い日や満潮時には足元に波が寄せる場合があります。見学の際は動きやすい靴でのアクセスがおすすめですよ。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #愛知県 #伊良湖 #伊良湖岬灯台

170 いいね 170投稿から45日16時間56分後
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312 312回再生 投稿から46日21時間34分後(1,125時間)(2026.09.11 16:35時点で取得) 30日経過・確定

土用の丑の日はウナギですよねー😊 みなさんもウナギ食べて暑い夏を乗り越えていきましょうネ😄 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #土用の丑の日 #うなぎ

122 いいね 122投稿から46日21時間34分後
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1,209 1,209回再生 投稿から47日16時間12分後(1,144時間)(2026.09.11 16:35時点で取得) 30日経過・確定

長篠城(ながしのじょう)は、愛知県新城市にある平山城跡です。天正3年(1575年)の「長篠・設楽原の戦い」の舞台として日本史上非常に重要な役割を果たした城郭であり、現在は国の史跡および「日本100名城」に選定されています。 1. 地形と構造:断崖絶壁に守られた「天然の要塞」 長篠城の最大の特徴は、2つの河川が合流する河岸段丘の先端に築かれている点です。 ・天然の堀(東・南): 南側を寒狭川(豊川の上流)、東側を宇連川が流れており、二つの川が合流する地点の断崖(高さ約50m)の上に本丸が置かれました。水際からの侵入はほぼ不可能です。 ・人工の堀と土塁(北・西): 川に面していない北側および西側に対しては、空堀と分厚い土塁を何重にも配置して防備を固めました。 大規模な天守や高い石垣を持つ城郭ではありませんが、中世の中小城郭としては非常に強固な「攻めにくく守りやすい」構造をしていました。 2. 歴史的背景:武田と徳川の「境目の城」 長篠城が位置する奥三河地域は、信濃(武田氏)、遠江・駿河(今川氏/武田氏)、三河(徳川氏)の国境が接する要衝でした。そのため、常に勢力争いの渦中にありました。 ・永正5年(1508年): 菅沼元成によって築城されたと伝わります。 元亀〜天正年間: 武田信玄の侵攻を受け、城主であった奥平氏(菅沼氏の支流)は武田方に従属します。 ・天正元年(1573年): 信玄の死後、徳川家康の策応に応じて城主・奥平信昌(貞昌)が徳川方に寝返り、長篠城を確保します。 これに激怒した武田勝頼が、三河侵攻と長篠城の奪還を目指して15,000の大軍を率いて挙兵したことが、「長篠の戦い」の発端となります。 3. 長篠城の攻防戦(1575年) 1575年5月、武田勝頼率いる15,000の軍勢が長篠城を包囲しました。これに対する長篠城の守備兵はわずか500人余り(奥平信昌指揮)でした。 ・兵糧攻めと鳥居強右衛門の壮挙 兵力差30倍という絶望的な状況のなか、城兵は天然の要害と鉄砲を駆使して武田軍の猛攻をしのぎましたが、兵糧庫を焼かれ限界に達します。 ここで足軽の鳥居強右衛門(とりい すねえもん)が、武田軍の隙を突いて川を泳ぎ下り、密かに脱出。岡崎城の徳川家康・織田信長へ救援を要請することに成功します。「織田・徳川連合軍3万8千が救援に向かう」という朗報を得た強右衛門は城へ戻ろうとしますが、武田軍に捕らえられてしまいます。 武田方は彼に「救援は来ないから諦めろと城内に叫べば命を助ける」と持ちかけますが、強右衛門は城に向かって「あと数日で救援が来る!それまで耐えろ!」と大声で叫び、その場で磔(はりつけ)に処されました。この捨て身の報告によって城兵の士気は跳ね上がり、城は救援到着まで持ちこたえることができました。 ・設楽原の決戦へ 城の攻略に手間取った武田軍は、西から接近する織田・徳川連合軍を迎え撃つため、決戦の地である「設楽原(したらがはら)」へ向かいました。ここで馬防柵と鉄砲3千挺を活用した連合軍により武田騎馬隊は壊滅的打撃を受け、長篠の戦いは結末を迎えます。 4. 現在の状況と見どころ 長篠城は合戦で大きな損害を受けた後、城主の奥平信昌が新城城へ拠点を移したため、間もなく廃城となりました。しかし、その跡地は当時の遺構を非常に良好な状態で留めています。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #愛知県 #新城市 #長篠城

198 いいね 198投稿から47日16時間12分後
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(2026.09.11 16:35時点で取得)
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298 298回再生 投稿から51日21時間5分後(1,245時間)(2026.09.11 16:35時点で取得) 30日経過・確定

あー、今月ポンコツ達は点検中となっております😅 なので今回はメインキャラクターのミケ丸に頑張ってもらいました😊 宇宙刑事ニャバンです! 少しでも笑ってもらえたら嬉しいです😆😆😆 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #宇宙刑事ギャバン #GABAN #おもしろ動画

92 いいね 92投稿から51日21時間5分後
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2026.09.11 16:35 時点 30日経過・確定 投稿から51日21時間5分後(1,245時間)
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756 756回再生 投稿から53日10時間3分後(1,282時間)(2026.09.11 16:35時点で取得) 30日経過・確定

愛知県新城市にある「青龍山 満光寺(せいりゅうざん まんこうじ)」は、戦国ファンや日本庭園好きの間でよく知られる、歴史と美しさを兼ね備えた曹洞宗の古刹です。道の駅「三河三石」のすぐ裏手に位置しています。  このお寺を語る上で欠かせないは「歴史」「伝説」「建築・庭園」の3つのポイントです。 1. 満光寺の歴史 ・創建: 平安時代の貞観2年(860年)、比叡山延暦寺の座主も務めた名僧・円仁(慈覚大師)によって天台宗の寺院として開かれたと伝えられています。  ・宗派の変遷: その後、戦火によって一時荒廃しましたが、室町時代後期(戦国時代初期)の天文2年(1533年)に山吉田一帯を治めていた国人領主・鈴木重勝が深く帰依し、玄賀和尚を迎えて現在地に移転・再興、曹洞宗へと改宗されました。 ・霊場: 本尊には十一面観世音菩薩が祀られており、「奥三河七観音霊場」の第五番札所にも数えられています。  2. 徳川家康の命を救った「鶏の伝説」 満光寺で最も有名なのが、徳川家康の危機を救ったという「一番鶏」の逸話です。  元亀年間(1570〜1573年頃)、若き日の徳川家康が武田信玄の軍勢に敗れ、命からがら逃げ延びる途中で満光寺に宿をとりました。疲弊していた家康は住職に「一番鶏が鳴いたら起こしてくれ」と頼んで眠りにつきます。  するとその夜、なぜかまだ外が真っ暗な真夜中であるにもかかわらず、鶏が突然激しく鳴き声を上げました。不審に思いつつも住職が約束通り家康を起こしたため、家康一行はすぐに出発します。 その直後、武田方の追手(山県昌景の軍勢などとされる)が満光寺に押し寄せ、寺を完全に包囲しました。しかし家康は間一髪で脱出した後だったため、無事に難を逃れることができたのです。 ・「寺領三石」の恩賞 後に天下を統一した家康は、この時の恩を忘れず、満光寺の鶏に対して「寺領三石(さんごく)」の黒印状を与えて報いました。一羽の鶏が武士のように「扶持(給料)」をもらったという大変珍しい話です。この歴史にちなみ、すぐ隣にある道の駅は「三河三石」と名付けられました。今でも境内では、遣唐使が持ち帰った鶏の子孫とされる「小国(しょうこく)」という立派な鶏が飼育されています。 3. 建築と名勝「満光寺庭園」 満光寺は、江戸時代の面影を強く残す建築や、非常に美しい日本庭園でも高い評価を受けています。 ・山門(新城市指定文化財): どっしりとした趣のある茅葺き(または瓦葺き)の山門は、江戸時代に建てられた歴史ある建築です。  ・満光寺庭園(愛知県指定名勝): 江戸時代中期(1706年の本堂改築時)に改修されたとされる、見事な遠州流の池泉鑑賞式庭園です。 背景にある自然の山の急峻な地形(斜面)を巧みに活かしており、書院から眺める「北庭」と庫裡から眺める「東庭」の2つから構成されています。  ・斜面を利用したダイナミックな「枯滝石組(水を使わずに石で滝を表現したもの)」 ・長寿の象徴である「鶴島」と「亀島」の見立て  サツキやツツジが多く植え込まれており、春(5月頃)には斜面一面が鮮やかに彩られます。  ☆参拝時のワンポイント ・アクセス: 車での訪問が便利です。国道257号線沿いにある「道の駅 三河三石」に車を停め、そこから歩いてすぐアクセスできます。  ・庭園の公開: 庭園の拝観は土・日・祝日のみとなっている場合が多いため、お庭をじっくり鑑賞したい場合は週末や祝日を狙って訪れるのがおすすめです。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #愛知県 #新城市

189 いいね 189投稿から53日10時間3分後
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82 コメント 82投稿から53日10時間3分後
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2026.09.11 16:35 時点 30日経過・確定 投稿から53日10時間3分後(1,282時間)
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山梨県身延町にある「上澤寺(じょうたくじ)」は、身延山久遠寺のほど近くに位置する日蓮宗の古刹で、国指定の天然記念物である珍しいイチョウの木があることで広く知られています。  1. 基本情報と沿革 正式名称:法喜山 上澤寺(ほうきざん じょうたくじ)  所在地:山梨県南巨摩郡身延町下山279  宗派:日蓮宗(旧本山は身延山久遠寺)  ・開創の歴史:もともとは真言宗の寺院でした。文永11年(1274年)、当時の住職であった恵朝阿闍梨善智法印(えちょうあじゃりぜんちほういん)らが、佐渡流罪から解かれて身延に入った日蓮聖人と出会って教えを受け、日蓮宗へと改宗したと伝えられています。 2. 名物「お葉付きイチョウ(さかさ銀杏・毒消し銀杏)」 上澤寺を最も有名にしているのが、境内の本堂北側に立つ「オハツキイチョウ」の巨木です。昭和4年(1929年)に国の天然記念物に指定されました。  ・特徴:通常のイチョウとは異なり、葉の表面や縁に直接実(ギンナン)が結実するという極めて珍しい変種です。 ・伝承(さかさ銀杏・毒消し銀杏): 上澤寺の「毒消し銀杏(さかさ銀杏)」の背景にある「毒難(どくなん)の伝説」は、日蓮聖人の身代わりとなった白犬と、宿敵だった僧侶たちの改心を描いた、身延山周辺でも特に有名な仏教説話です。 この伝説には、以下のようなドラマチックなストーリーが残されています。 ☆毒難伝説のストーリー ◉激しい法論と、胸に秘めた恨み 文永11年(1274年)、日蓮聖人が身延山へ入山する際、上澤寺に立ち寄りました。そこで当時、近隣の大きな勢力であった真言宗の僧・恵朝(えちょう / 善智法印)らと激しい宗論(宗教の討論)を行います。 討論は日蓮聖人の圧倒的な勝利に終わりましたが、恵朝らは表向きは従ったふりをしつつも、内心では激しい恨みを抱き、日蓮聖人を亡き者にしようと企みました。  ◉毒入りの餅(饅頭) あるとき、恵朝らは日蓮聖人を上澤寺に招き、密かに鴆毒(ちんどく:強力な毒)を仕込んだ「萩餅(または毒饅頭)」を差し出しました。 日蓮聖人はその企みを鋭く見抜き、何気ない様子で、たまたま庭先に現れた1匹の白犬にその餅を投げ与えました。 ◉白犬の悶死と、僧たちの改心 餅を食べた白犬は、またたく間に苦しみ、そのまま息絶えてしまいます(一説には、毒消しの護符によって一度は蘇生したものの、数日後に息を引き取ったとも言われます)。 目の前で起きた凄惨な光景と、すべてを見抜かれていたことを悟った恵朝らは、激しい恐怖と罪悪感に襲われました。日蓮聖人の威徳と法華経の力に心からひれ伏した彼らは、悪事を白状して深く懺悔し、その場で日蓮宗へと改宗(帰依)しました。 ☆改宗した僧たちのその後 このとき改心した恵朝は「日伝(にちでん)」、当時の上澤寺住職・法喜は「日受(にちじゅ)」という名を日蓮聖人から授かり、それぞれ高僧として実在の歴史に名を残すことになります。 ◉墓標の杖が大イチョウへ 日蓮聖人は、自分の身代わりとなって命を落とした白犬を深く哀れみ、諸天善神(神仏)が白犬の姿を借りて自分を守ってくれたのだとして、境内に懇ろに葬りました。 そして、その犬の塚(お墓)の上に、日蓮聖人が使っていた銀杏(いちょう)の杖を墓標として突き刺し、回向(供養)を行いました。  やがて不思議なことに、地面に刺したはずの杖から根が生え、芽吹き、みるみるうちに成長して巨大な木となりました。これが今に伝わる上澤寺の「オハツキイチョウ」です。 ☆伝説が残した「3つの奇妙な特徴」 この毒難の伝説により、上澤寺のイチョウには他の木にはない3つの特徴があると信じられています。 ・さかさ銀杏:日蓮聖人が杖を「逆さま」に突き刺したため、枝がすべて下を向いて垂れ下がるように伸びるようになったとされています。  ・毒消し銀杏:身代わりとなった白犬の霊力が宿っているため、このイチョウの葉や若い実には強い解毒作用(消毒効果)があるとされ、古くから諸病の妙薬として重宝されてきました。現在も上澤寺が製造・販売している漢方薬のルーツとなっています。  ・犬の牙の形をした実:上澤寺のお葉付きイチョウの実(ギンナン)は、すべて犬の牙に似た尖った形をして結実すると言われており、身代わりとなった白犬の面影を今に伝えています。 ※現在の状況について 2018年(平成30年)秋の台風24号による強風で、この大イチョウは根元付近から倒伏してしまいました。しかし、根の一部が生きていたことから復旧事業が行われ、現在は倒れたままの状態で新たな枝葉を伸ばし、力強く復活・再生を続けている姿を見ることができます。 3. 境内の見どころと信仰 身延山へ参拝する人々(身延詣で)が道中に立ち寄る重要な霊場として古くから信仰を集めてきました。山門や本堂は歴史の重みを感じさせる厳かな佇まいで、大イチョウの生命力を直接感じられるパワースポットとしても知られています。 周辺には「富士川クラフトパーク」などの観光施設もあり、中部横断自動車道の開通(下部温泉早川ICから車で数分)によってアクセスも非常に良くなっています。 是非参拝されてみてはいかがですか? 😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #山梨県 #身延町

177 いいね 177投稿から60日16時間42分後
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(2026.09.11 16:35時点で取得)
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静岡県富士宮市にある「人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)」は、世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つです。 富士山信仰において、単なる美しい山としての崇拝を超えた「精神的な中心地」として非常に重要な歴史を持っています。 1. 信仰の誕生:聖地としての「人穴」 この遺跡の中核にあるのは、富士山の噴火によってできた全長約83メートルの溶岩洞窟「人穴」です。 ・浅間大菩薩の在所: 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、将軍・源頼家が部下に命じて洞窟内を探検させたという怪奇現象の伝説が残るほど、古くから神聖(あるいは畏怖の対象)とされていました。 ・長谷川角行の修行: 16〜17世紀(戦国後期から江戸初期)に、富士講の開祖とされる長谷川角行(かくぎょう)がこの洞窟内で過酷な千日修行を行い、ここで入滅(逝去)したと伝えられています。これにより、人穴は富士講信者にとって最大の聖地、あるいは宇宙の中心のような場所となりました。 2. 江戸時代のブームと「碑塔群」 江戸時代中期以降、関東を中心に「富士講」という民間信仰が爆発的なブームを巻き起こします。「江戸八百八町講中(こうじゅう)あり」と言われるほど多くのグループが作られ、彼らはこぞって聖地であるこの人穴を訪れました。 境内に一歩足を踏み入れると、異様なほど密集した約230基もの石碑(碑塔群)が目を引きます。これらは各地の富士講のグループが、開祖・角行の徳を慕ったり、自分たちの講の記念、物故者の供養のために建立したものです。 碑文を読み解くと、江戸周辺だけでなく、現在の神奈川、埼玉、千葉など広い地域から信者が集まっていたことが分かります。当時の庶民の熱狂的な富士山信仰を物理的に証明する、国内でも唯一無二の景観です。 3. 歴史の変遷 ・明治時代(廃仏毀釈): 明治政府による神仏分離・廃仏毀釈や、富士講自体への統制により、一時は宗教的な活動が下火になります。人穴の管理も「人穴浅間神社」へと移行していきました。 ・現代(世界遺産へ): 富士山信仰の歴史を物語る極めて重要な遺跡として評価され、2013年に世界文化遺産に登録されました。 現在、洞窟(人穴)の内部は崩落の危険性があるため原則として立ち入りが制限されていますが、事前に富士宮市教育委員会などが実施するガイドツアーや手続きを経て、一部見学できる場合があります。隣接する案内所では、出土品や富士講の歴史を分かりやすく解説した展示を見ることができます。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #静岡県 #富士山 #富士宮市

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静岡県富士宮市に鎮座する山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は、世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つであり、富士山信仰の歴史を語る上で極めて重要な、独特の構造を持つ神社です。 最大の特徴は、一般的な神社にあるはずの「本殿」や「拝殿」といった社殿が一切ない点にあります。 1. 原始的な「遥拝」の形態を残す境内 多くの神社は、神様が宿る建物(本殿)を建ててそこを拝みますが、山宮浅間神社にはそれがありません。古代の日本人が行っていた、自然そのものを神仏として崇める原始的な山岳信仰(自然崇拝)の形を今に伝えています。 木々に囲まれた参道を登った最奥部には、石積みの「磐境(いわさか)」で囲まれた遥拝所(ようはいじょ)があるのみです。参拝者はこの空間から、遮るもののない正面にそびえる富士山そのものを「御神体」として直接仰ぎ見、祈りを捧げます。 2. 歴史と起源:本宮浅間大社の「元宮」 全国に1,300社以上ある浅間神社の総本宮「富士山本宮浅間大社」の起源にあたる場所(元宮)とされています。 ・創建の伝承: 伝承では、第11代垂仁天皇の時代、富士山の噴火を鎮めるために磐境を設け、浅間大神を祀ったのが始まりとされています。 ・大社への遷座: その後、大同元年(806年)に坂上田村麻呂によって神霊が現・本宮浅間大社(富士宮市宮町)へと移されましたが、その後も「元宮」として特別な大祭が続けられました。 3. 「山宮御神幸」という重要な祭祀 本宮へ遷座した後も、毎年春と秋には「山宮御神幸(やまみやおしんこう)」という大規模な祭事が行われていました。 これは、本宮から神霊を特別な矛(ほこ)に移し、山宮浅間神社へと里帰りさせる往復約8キロの巡行です。神霊が山宮の遥拝所に据えられた「鉾立石(ほこたていし)」に滞在し、富士山の神霊と交流してエネルギーを蓄え、再び本宮へ戻るという、中世から戦国時代にかけて非常に重視された国家的な祭祀でした。 4. 建築・見どころのポイント 社殿はありませんが、境内には歴史的・考古学的に貴重な遺構が残されています。 ・籠屋(こもりや): 遥拝所の手前にある建物。かつて神職や祭祀の参列者が、祈願のために夜通し籠ったり、準備を整えたりした場所です。 ・鉾立石(ほこたていし): 御神幸の際、神霊が宿った矛を立てて安置したとされる石が、遥拝所の手前に残されています。 ・神木(桜): 磐境の傍らには、富士山の女神である木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメ)を象徴するような美しい桜の木が佇んでいます。 富士山周辺にある他の浅間神社のような華麗な朱塗りの社殿とは異なり、静寂の中に富士山と一対一で向き合うような、厳かでどこか神秘的な空気が漂う場所です。歴史や自然崇拝の原点を感じる上で、これ以上ない史跡と言えます。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #静岡県 #富士山 #山宮浅間神社

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あー、やっと今月もポンコツ入荷できました😅 今回はイデニャンの登場です😊 少しでも笑ってもらえたら幸いです😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の文化 #ロボットアニメ #イデオン

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高田城(新潟県上越市)は、徳川家康の六男である松平忠輝の居城として、江戸時代初期の1614年(慶長19年)に築城された平城です。大坂の陣を目前に控え、豊臣方や北陸の諸大名への牽制、そして越後の安定を図るという極めて重要な政治的・軍事的な目的を持って建てられました。 最大の特徴は、「石垣がないこと」、そして「天守閣が建てられなかったこと」にあります。 ◉高田城の歴史と構造的特徴 1. 驚異的な短期間での突貫工事 高田城の築城は、伊達政宗(忠輝の義父)が総奉行を務め、前田利常や上杉景勝など13家の大名が動員される「天下普請」として行われました。驚くべきことに、この広大な平城はわずか4ヶ月という異例のスピードで完成しています。大坂の陣が間近に迫っていたため、一刻も早い完成が求められたためです。 2. 石垣と天守を持たない土塁の城 突貫工事であったこと、また周辺で良質な石材が調達しにくかったことから、高田城には石垣がほとんどありません。その代わりに、広大な水堀と、それを掘削した土を高く積み上げた大規模な土塁(どるい)によって防御陣地を形成しています。 また、最初から天守閣は造られず、本丸の南西隅に建てられた「三重櫓(さんじゅうやぐら)」が天守の代わり(象徴)として機能していました。 1993年に上越市発足20周年記念事業として復元された外観復元三重櫓が、かつての面影を今に伝えています。 現在の城跡は「高田城址公園」として整備されており、日本続100名城にも選定されています。広大な内堀・外堀の跡から、当時のスケールの大きさを体感することができます。 ◉日本三大夜桜 高田城跡は、現在では日本屈指の桜の名所として知られています。明治時代、陸軍第13師団の入城を記念して植樹されたのが始まりで、現在では約4,000本のソメイヨシノが公園を埋め尽くします。 特に夜間、ライトアップされた三重櫓と桜が水堀に映り込む景色は、「日本三大夜桜」の一つに数えられており、春には国内外から多くの観光客が訪れます。 高田城は、石垣や天守といった分かりやすい派手さこそありませんが、「短期間での天下普請」「巨大な土塁と水堀による実戦的防御」という、徳川幕府の切迫した戦略が生み出した独特の機能美を持つ、歴史的に非常に興味深い名城です。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #新潟県 #上越市 #高田城

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新潟県で随一のパワースポットとして知られ、古くから「おやひこさま」の愛称で親しまれている彌彦神社(いやひこじんじゃ)。 越後国の一宮(その地域で最も格式が高い神社)であり、広大な越後平野を見下ろす弥彦山の麓に鎮座しています。 1. 彌彦神社とは?(概要と歴史) 所在地: 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦 格式: 越後国一宮、旧国幣中社 御神体: 弥彦山(標高634m ※東京スカイツリーと同じ高さです) 創建の年代は定かではありませんが、日本最古の歌集『万葉集』にも弥彦山を詠んだ歌が残されていることから、1300年以上前にはすでにこの地で人々の信仰を集めていたことが分かっています。現在の社殿は大正5年(1916年)に再建されたもので、国の登録有形文化財にも指定されている荘厳な建築です。 2. 御祭神と御神徳(ご利益) 彌彦神社に祀られている神様は、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の曾孫にあたる天香山命(アメノカグヤマノミコト)です。 神話の時代、天香山命は越後の地に上陸し、当時まだ荒れ地だったこの地方を開拓しました。住民に農業、漁業、製塩、酒造などの技術を授けた「越後開拓の祖神」として崇められています。 主なご利益: 国土安泰、産業振興、家内安全、厄除け、縁結び また、弥彦山の山頂には天香山命と妃神(熟穂屋姫命:うましほやひめのみこと)が仲良く祀られている「御神廟(奥の宮)」があることから、縁結びの名社としても非常に有名です。 3. 最大の特徴:独自の参拝作法「二礼四拍手一礼」 日本の神社の多くは「二礼二拍手一礼」が一般的ですが、彌彦神社では「二礼四拍手一礼」が正式な作法です(出雲大社や宇佐神宮など、全国でも数少ない珍しい作法です)。これは「神様に対してより丁重に敬意を表すため」に代々受け継がれてきた作法とされています。 4. 境内の外せない見どころ 広大な境内は一歩足を踏み入れると空気が変わり、凛とした静けさに包まれています。 ■ 一の鳥居(独自の構造) 表参道の入り口に立つ朱色の大きな鳥居です。実は、中央の2本の柱が地面から数センチ浮いているという非常に珍しい構造をしています。これは、雪や雨水による根元の腐食を防ぐための先人の知恵と言われています。 ■ 玉の橋(神様だけの橋) 一の鳥居をくぐってすぐ左手にある、美しい半円を描いた朱色の橋です。御手洗川(みたらしがわ)に架かっており、「神様が渡る橋」とされているため人は渡ることができません。 ■ 火の玉石(重軽の石) 手水舎の近くにある2つの丸い石です。「願い事を心に浮かべながら石を持ち上げ、軽いと感じれば願いが叶い、重くて持ち上がらなければ努力が必要」とされる占いの石。実際に持ってみると驚くほどずっしりとしています。 ■ 随神門と拝殿 風格ある「随神門」をくぐると、弥彦山を背景に堂々と佇む「拝殿」が現れます。緑の山々と、銅板葺きの美しい屋根のコントラストは息をのむ美しさです。 近くには「弥彦公園(もみじ谷)」などの紅葉の名所や、温泉街(弥彦温泉)もあり、お参りとともに門前町のグルメ(パンダ焼きや日本酒など)を楽しめるのも魅力です。 ◉いやひこ?やひこ? 結論から言うと、どちらも正解です!ただし、使われる場面によって明確な使い分けがあります。 日常会話や地名としては「やひこ」、神社の正式な名前(固有名詞)としては「いやひこ」と読むのがルールになっています。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #パワースポット神社 #日本の風景 #旅行 #新潟県 #弥彦村

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福島県耶麻郡西会津町にある金剛山 如法寺(にょほうじ)は、通称「鳥追観音(とりおいかんのん)」として古くから厚い信仰を集める真言宗室生寺派の寺院です。 弘安寺(中田観音)、立木観音(恵隆寺)とともに「会津ころり三観音」の一つに数えられ、「霊場に参拝すれば病気で苦しむことなく、元気に長生きして最後は“ころり”と大往生できる」という御利益で有名です。 1. 歴史と由来 鳥追観音の歴史は1200年以上前の平安時代初期に遡ります。 開創: 大同2年(807年)、仏都会津の祖とされる徳一大師(とくいつだいし)が坂上田村麻呂の祈願により、会津の「西方浄土」の霊場として開創したと伝えられています。 名前の由来: 天平8年(736年)、行基(ぎょうき)がこの地を巡錫した際、鳥獣の害に苦しむ農民のために聖観音像を授けました。その霊験によって鳥獣が去り、農作物が豊作となったことから「鳥追」の名がついたと言われています。 再建: 慶長16年(1611年)の会津大地震により建物が倒壊しましたが、その後、会津藩の家老であった岡半兵衛重政らによって再建されました。現在の観音堂や仁王門は、この江戸時代初期の建築様式を残しており、国の重要文化財や県の重要文化財に指定されています。 2. 最大の特徴:全国的にも珍しい「東西向拝口」の観音堂 鳥追観音の最もユニークな特徴は、観音堂の構造にあります。 通常、お堂は正面から入って参拝し、同じところから戻って出てきます。しかし、ここの観音堂は「東の口から入り、参拝した後は後ろを振り返らずに西の口から出る」という一方通行の構造(東西向拝口)になっています。 これは、東(現世・誕生)から入ってお参りし、観音様のお導きによって西(あの世・あの世の極楽浄土)へそのまま通り抜けることで、「二世安楽(現世の安穏と来世の成仏)」が得られ、西方安楽浄土へ往生できるという信仰を表した全国的にも大変珍しい間取りです。 3. 境内の主要な見どころ ① 左甚五郎作「隠れ三猿」の彫刻 観音堂の向拝(建物の前面に突き出た屋根の下)には、日光東照宮の「眠り猫」などで有名な伝説の名匠・左甚五郎(ひだりじんごろう)の作と伝えられる見事な彫刻があります。その中でも特に有名なのが「隠れ三猿」です。 この三猿は、一般的な「見ざる・聞かざる・言わざる」ではなく、独自の意味を持っています。 1. 災難より隠れ猿(前向きに生きる) 2. 災難より逃れ猿(難を逃れる) 3. 安楽に暮らし猿(安泰に暮らす) 3匹目の「安楽に暮らし猿」は、牡丹の蕾の陰に巧妙に隠し彫りされています。お堂を参拝しながらこの3匹を自力ですべて見つけ出すことができると、「固いつぼみが花開くように幸運が開き、福が勝る(福マサル)」と言われており、参拝者がこぞって探す人気のスポットです。 ② 県重要文化財「身代りなで仏」(金剛力士像) 観音堂に安置されている金剛力士像(仁王像)は、「身代りなで仏」として信仰されています。文化財でありながら、現在でも直接触れることが特別に許可されています。 自分の体の悪い部分や、健康を維持したい部分と、仏像の同じ部分を交互になでて祈願することで、病気平癒や厄除けの御利益があるとされています。 ③ 樹齢1200年の高野槙(コウヤマキ) 境内には、徳一大師が如法寺を開創した際に記念植樹したと伝えられる巨木・高野槙がそびえ立っています。 根周り約6メートル、高さ約30メートルに達し、高野槙としては東北地方最大の大きさを誇ります。福島県の天然記念物に指定されており、1200年の歴史の重みを感じさせるパワースポットです。 ④ 福縁結び「抱きつき柱」 観音堂の内部には「善男柱」「善女柱」と呼ばれる二つの太い柱があります。この柱に優しく抱きついて祈願すると、観音様のご縁導きによって良縁(男女の縁だけでなく、仕事や人間関係の良縁)が授かると言われています。 4. 基本情報 御本尊: 聖観世音菩薩(行基作と伝わる秘仏。通常は室町時代作の「お前立」の聖観音坐像を拝観します) ・宗派: 真言宗室生寺派 ・山号: 金剛山(こんごうさん) ・札所: 会津三十三観音 番外札所 ・所在地: 福島県耶麻郡西会津町野沢字如法寺乙3533 ・アクセス: 磐越自動車道「西会津IC」から車で約5分、JR磐越西線「野沢駅」から徒歩またはタクシー。 鳥追観音は、戊辰戦争の際に会津藩主・松平容保公が戦勝祈願に訪れた歴史的な地でもあります。四季折々の自然(春の桜、秋の紅葉など)に囲まれた美しい境内は、歴史・建築・彫刻のどれをとっても非常に見応えのある霊場です。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #福島県

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福島県会津坂下町(あいづばんげまち)にある「金塔山 恵隆寺(きんとうざん えりゅうじ)」は、1200年以上の歴史を持つ真言宗豊山派の古刹です。地元ではお寺の名前よりも、本尊にちなんで「立木観音(たちきかんのん)」の名で広く親しまれています。 1. 恵隆寺の歴史と開山伝説 恵隆寺の始まりは平安時代初期にまでさかのぼります。 開基: 延暦17年(798年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東夷東征の際、戦勝を祈願して一宇(ひとつの堂宇)を建立したのが始まりとされています。 弘法大師(空海)の伝説: 大同3年(808年)、この地を訪れた弘法大師が、霊木の根が付いたままの状態で千手観音像を彫り上げ、本尊としたという伝承が残っています。これが「立木観音」の名の由来です。 かつては広大な境内と多くの宿坊を抱える大寺院でしたが、中世の戦火などで一時衰退し、現在の観音堂などは再建されたものが今に伝わっています。 2. 境内最大の至宝:重要文化財「観音堂」 本尊が安置されている「観音堂」は、それ自体が非常に貴重な建築物として国の重要文化財に指定されています。 建築の特徴: 鎌倉時代の文永10年(1273年)に再建された、東北地方を代表する鎌倉建築です。四方五間の正方形に近い堂々たる造りで、屋根は重厚な茅葺き(寄棟造り)。一切の着色が施されていない素木の風合いが、長い歴史を感じさせる圧倒的な渋みを放っています。 3. 堂内に並ぶ「奇跡の仏像群」 お堂の内部には、外観からは想像もつかないほどの濃密な仏教世界が広がっています。 ① 本尊:木造千手観音立像(国指定重要文化財) お堂の中央にそびえ立つ、高さ8.5メートル(像高7.42メートル)の巨像です。1本のカツラの巨木から彫られた一木造りで、立ち木仏としては日本最大級。そのスケール感と、長い年月を経て黒光りする厳かな姿は、見る者を一瞬で圧倒します。 ② 二十八部衆・風神・雷神像(計30体) 本尊の両脇と背後を固めるように、千手観音の眷属(従者)である「二十八部衆」と「風神・雷神」の合計30体の仏像がズラリと安置されています。 これほど大規模な仏像群が、欠けることなく30体すべて揃って残っている例は全国的にも極めて珍しく、本尊とともにすべて国の重要文化財に指定されています。 4. 恵隆寺に伝わるユニークな信仰 恵隆寺は、古くから庶民の切実な願いを受け止める信仰の場所でもありました。特によく知られているのが以下の二つです。 ・「会津ころり三観音」の一つ 会津地方には「弘安寺(中田観音)」「如法寺(鳥追観音)」、そしてこの「恵隆寺(立木観音)」を巡る会津ころり三観音霊場という信仰があります。 この三つをすべて参拝すると、「病気で長患いすることなく、元気に天寿を全うし、あの世へ旅立つ時(亡くなる時)には『ころり』と逝くことができる」とされています。 ・観音堂の「だきつき柱」 お堂の内部には、本尊の前に大きな太い柱があります。この柱は観音様の右手と太い糸(善の綱)で結ばれており、この柱に直接抱きついて一心に祈願することで、観音様と直接ご縁を結び、どんな願いも叶えてもらえると信じられています。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #旅行 #日本の風景 #福島県

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会津さざえ堂(正式名称:円通三匝堂(えんつうさんそうどう))は、福島県会津若松市の飯盛山に建つ、極めて異色な構造を持つ仏堂です。江戸時代の1796年(寛政8年)に、正宗寺の住職であった郁堂(いくどう)和尚によって建立されました。 その最大の特徴は、世界でも類を見ない「二重螺旋(らせん)構造」の木造建築である点にあります。 この構造により、以下の画期的な特徴が生まれました。 ・完全な一方通行: 入口から入ってスロープを登り、最上階の太鼓橋を渡って別のスロープを降りてくると、一度も引き返すことなく出口(建物の背面側)に辿り着きます。 ・参拝者が交差しない: 登る人と降りる人が全く別の通路を通るため、狭い堂内でもすれ違うことがなく、混雑時でもスムーズに参拝できるよう設計されています。 ☆建立の目的と文化的背景 なぜこのような複雑な構造にしたのか、それには江戸時代の民衆の信仰心と、郁堂和尚のアイデアが関係しています。 1. 省スペースで「西国三十三観音巡礼」を擬似体験 当時、関西方面の三十三箇所の観音霊場を巡る「西国三十三観音巡礼」は大ブームでしたが、東北の庶民にとって長旅の資金や時間を工面するのは容易ではありませんでした。 そこで郁堂和尚は、さざえ堂の登り斜面に17体、下り斜面に16体の計33体の観音像を配置しました。このお堂を1周(三匝)するだけで、三十三観音すべてをお参りしたのと同じ功徳が得られる、いわば「お手軽巡礼アトラクション」として機能させたのです。 ※明治の神仏分離令により、現在は観音像に代わり「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられています。 2. 「三匝(さんそう)」に込められた意味 正式名称にある「三匝」とは「3回まわる」という意味です。仏教では仏や仏塔の周囲を右回りに3回まわって敬意を表す礼法(右繞三匝:うにょうさんそう)があり、この建物を登って降りる行為自体が、仏教的な功徳を満たす仕組みになっています。 ・奇跡の構造:二重螺旋スロープ さざえ堂の外観は三階建ての六角形のお堂ですが、内部には階段が一段もありません。代わりに、中央の柱の周りをぐるぐると登るスロープと、下るスロープが完全に独立して配置されています。 ☆建築としての評価と謎 木造でこれほど正確な二重螺旋を組み上げる技術は、当時の建築技術としても突出しています。これには興味深い説があります。 ・レオナルド・ダ・ヴィンチの影響説? フランスのシャンボール城にある、ダ・ヴィンチが設計したとされる二重螺旋階段のスケッチや構造が、長崎の出島を経由して洋書(和蘭吉利支丹宗門改之図など)として日本に伝わり、郁堂和尚がそれを参考にしたのではないかというロマン溢れる説があります(確証はありませんが、当時の蘭学の流入経路から可能性はゼロではないとされています)。 ☆国の重要文化財指定 その特異な建築様式と歴史的価値が認められ、1995年(平成7年)に国の重要文化財に指定されました。 飯盛山は白虎隊自刃の地としても知られますが、このさざえ堂はそのふもとにあり、江戸時代の職人技とアイデアが奇跡的に現代に残された、世界的にも極めて貴重な木造建築です。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #福島県 #会津若松 #さざえ堂

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「鶴ヶ城(つるがじょう)」は、福島県会津若松市にある日本屈指の名城です。地元では古くから「鶴ヶ城」と呼ばれていますが、国の史跡としては「会津若松城」、文献によっては「黒川城」と表記されることもあります。 幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)における激しい籠城戦に耐え抜いた「難攻不落の名城」として、日本の歴史にその名を深く刻んでいます。日本100名城のうちの一つでもあります。 ☆鶴ヶ城の最大の特徴:日本唯一の「赤瓦」 現在の鶴ヶ城を象徴するのが、天守閣を彩る独特の「赤瓦(あかがわら)」です。 大多数の城には黒やグレーの瓦(黒瓦)が使われますが、会津の厳しい冬の寒さは、瓦の内部に染み込んだ水分を凍らせて割ってしまう原因になっていました。そこで、表面に鉄分を含む釉薬(ゆうやく)をかけて焼き上げた、強度の高い「赤瓦」が開発・採用されました。 明治時代に一度取り壊されたものの、2011年の大規模な改修によって、幕末当時の姿である赤瓦の天守閣が見事に再現されました。 ☆歴史の変遷と構造 鶴ヶ城の歴史は、室町時代の1384年に葦名直盛(あしな なおもり)が築いた館「黒川城」から始まります。その後、時代とともに城主が変わり、構造も大きく進化していきました。 ◉主要な歴史タイムライン ・葦名氏による築城(黒川城) 1384年 葦名直盛が東黒川館を築く。これが後の鶴ヶ城の原形となる。 ・伊達政宗による奪取 1589年 摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達政宗が葦名氏を滅ぼし、黒川城を手に入れる。しかし翌年、豊臣秀吉の命により没収される。 ・蒲生氏郷による近代城郭化(「鶴ヶ城」へ) 1592年〜 蒲生氏郷(がもう うじさと)が入封。近代的な総石垣の城へと大改修し、名も「鶴ヶ城」と改める。この時に7層の天守が築かれた。 ・加藤明成による5層天守への再建 1639年 大地震で大きな被害を受けた後、加藤明成(かとう あきなり)が現在の形に近い「5層(内部5階、地下1階)」の天守へと再建。同時に西出丸や北出丸などの強固な防御陣地(出丸)を追加。 ・松平氏の入封と戊辰戦争 1643年〜1868年 徳川家光の異母弟である保科正之(ほしな まさゆき)が入封し、以後は会津松平家が代々統治。1868年の戊辰戦争(会津戦争)では、新政府軍の猛烈な砲撃を浴びながらも約1ヶ月間持ちこたえ、「難攻不落」を証明した。 ☆軍事的な見どころ:高度な防衛システム 鶴ヶ城は、戦国時代から江戸初期にかけて培われた日本の築城技術の結晶とも言える構造を持っています。 ・武者走り(むしゃばしり) 太鼓門の近くにあるV字型の石垣。一見するとただの石垣ですが、内側に兵が駆け上がるための階段が隠されており、敵が攻めてきた際に迎撃部隊が瞬時に城壁の上へ展開できるよう設計されています。 ・北出丸・西出丸の「一文字新羅(いちもんじしんら)/ 枡形(ますがた)」 城の入り口(大手門など)の手前に作られた、四方を石垣や土塁で囲んだ四角い空間です。攻めてきた敵の直進を阻み、必ず進路を直角に曲がらせることで足止めし、頭上や周囲から一斉射撃を浴びせる「死のトラップ」として機能しました。 ・野面積み(のづらづみ)の堅牢な石垣 自然石をそのまま積み上げる古い技法(野面積み)から、徐々に石の角を加工して強度を高めた積み方まで、城内の場所によって異なる時代ごとの石垣の変遷を見ることができます。 ☆現代の鶴ヶ城:四季の美しさ 現在、城跡は「鶴ヶ城公園」として整備されており、日本さくら名所100選にも選ばれている絶景スポットです。 春の桜だけでなく、新緑、秋の紅葉、そして冬の「雪化粧と赤瓦」のコントラストなど、年間を通じて非常に美しい姿を見せてくれます。また、敷地内には千利休の息子ゆかりの茶室「麟閣(りんかく)」もあり、当時の数寄屋建築を今に伝えています。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #福島県 #会津若松

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二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市にある日本の城です。日本100名城の一つに数えられ、地元では別名「霞ヶ城(かすみがじょう)」の名で広く親しまれています。 戦国時代の山城としてのルーツと、江戸時代に近代城郭へと大改修された平山城としての二つの顔を持ち、幕末の戊辰戦争における悲劇の舞台としても知られています。 ☆二本松城の歴史 二本松城の歴史は、大きく「畠山氏時代」「伊達・上杉・蒲生時代」「丹羽氏時代(江戸期)」の3つに分けられます。 ○ 室町・戦国時代:二本松畠山氏の築城 1414年(応永21年)頃 足利一門の畠山高国が「白旗峰」に城を築いたのが始まりとされています。以後、畠山氏が7代にわたり南奥州の拠点として支配しました。 ○ 戦国末期:伊達政宗による攻落と激変 1586年(天正14年) 有名な「粟ノ巣の変(畠山義継による伊達輝宗拉致事件)」を経て、伊達政宗が猛攻を仕掛け畠山氏は滅亡。その後、城代として片倉小十郎や伊達成実が配置されました。 ○ 豊臣・徳川期:領主の激しい交代 1590年〜1643年 蒲生氏郷、上杉景勝、加藤明成などが次々と領主となり、この時期に山城から近世的な近代城郭への改修が進められました。 ○ 江戸時代:丹羽氏の入封と近代化 1643年(寛永20年) 織田信長の重臣・丹羽長秀の孫である丹羽光重が10万石で入封。光重は城を大改修し、三重の天守や強固な石垣、壮大な大手門(箕輪門)を構え、本格的な城下町を整備しました。以後、丹羽氏が11代にわたり統治し、幕末を迎えます。 ○ 幕末:戊辰戦争と「二本松少年隊」の悲劇 1868年(慶応4年) 奥羽越列藩同盟に加わった二本松藩は、新政府軍の猛攻を受けます。藩の主力軍が出征し留守となった城を死守するため、12歳から17歳の少年たちで構成された「二本松少年隊」が出陣。激しい防衛戦の末に多くの少年兵が戦死し、城は炎上・落城しました。 ☆建築的特徴と見どころ 現在の二本松城跡は「霞ヶ城公園」として整備されており、見事な石垣や復元建造物を見ることができます。 1. 復元された「箕輪門(みのわもん)」 城の正門(大手門)にあたる壮大な櫓門です。1982年(昭和57年)に藩政時代の意匠そのままに木造で復元されました。門の脇には、藩主・丹羽光重が家臣の戒めのために刻ませた国指定史跡「二本松の戒石銘(かいせきめい)」があります。 2. 本丸の「野面積み(のづらづみ)」石垣 山頂の本丸跡には、安土桃山時代から江戸初期にかけて造られた、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」の強固な石垣が残っています。一度は崩落の危機にありましたが、1993年(平成5年)から大規模な解体修理が行われ、当時の美しい姿を取り戻しました。山頂からは安達太良山(あだたらやま)を一望できます。 3. 三合庵(さんごうあん)と洗心亭(せんしんてい) 城内には、江戸時代から残る貴重な数寄屋造りの茶室「洗心亭」などがあり、当時の藩主たちの風雅な暮らしを今に伝えています。 ☆基本情報 所在地:福島県二本松市郭内3丁目(霞ヶ城公園) 城郭構造:平山城 天守構造:独立式望楼型3重(非現存・石垣のみ) 主な指定・選定:国指定史跡、日本100名城(42番)、日本のさくら名所100選 二本松城は、伊達政宗の野望、丹羽氏の情熱、そして少年隊の哀史など、日本の歴史の転換点を生々しく伝える名城です。春には約5,000本の桜が咲き誇り、まさに「霞に包まれた城」のような絶景を楽しめます。 是非訪れてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #福島県 #二本松市 #二本松城

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今月も動かしてみました(間に合った)🤣 ワールドカップが近づいてますねー😆 今回は、日光大猷院、夜叉門の夜叉の方々に再びご協力いただきました😆 頑張れ!日本代表! 応援しています‼️ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #ワールドカップ #サッカー日本代表 #頑張れ日本 #動く仏像 #大猷院

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瑞鳳殿は、宮城県仙台市青葉区にある仙台藩祖・伊達政宗(だてまさむね)の霊屋(おたまや・墓所)です。広瀬川に囲まれた経ヶ峯(きょうがみね)の鬱蒼とした杉林の中に佇んでおり、桃山文化の遺風を伝える極彩色で豪華絢爛な建築が特徴です。 1931年(昭和6)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20)の仙台空襲により焼失。現在の建物は1979年(昭和54)に再建されたもので、2001年(平成13)には大規模な改修が行われ、創建当時の鮮やかな姿がより忠実に再現されました。 主な歴史と背景 • 伊達政宗の遺言: 1636年(寛永13)に70歳で生涯を閉じた伊達政宗は、臨終の際に「死後は経ヶ峯に葬るように」という遺言を残しました。これを受けた二代藩主・伊達忠宗によって、翌1637年(寛永14)に瑞鳳殿が建立されました。 • 戦災と再建: 国宝指定されていた戦前の瑞鳳殿は、江戸時代初期の精巧な彫刻や彩色が残る貴重な文化財でしたが、第二次世界大戦の空襲で灰燼に帰しました。その後、市民の熱意と精緻な学術調査によって、往時の姿が現代によみがえりました。 建築の見どころ 1. 豪華絢爛な桃山様式 黒漆塗りをベースに、随所に施された金箔や、赤・青・緑などの極彩色な彫刻(鳳凰、天女、牡丹など)が目を引きます。日光東照宮などにも見られる、戦国乱世の気風を色濃く残した、華やかで力強い桃山文化の美意識が凝縮されています。 2. 経ヶ峯の霊屋群(周辺の霊屋) 瑞鳳殿のある境内には、政宗だけでなく、二代・三代藩主の霊屋も並んで建てられています。 • 感仙殿(かんせんでん): 二代藩主・伊達忠宗の霊屋。 • 善応殿(ぜんおうでん): 三代藩主・伊達綱宗の霊屋。 • 妙雲界廟(みょううんかいびょう): 九代藩主・周宗、十一代藩主・斉義などの墓所。 ☆発掘調査による貴重な発見 1974年(昭和49)の再建に先立ち、経ヶ峯の学術発掘調査が行われました。この際、伊達政宗公の遺骨や、数々の貴重な副葬品が発見され、歴史的にも大きな話題となりました。 • 完全な形で残っていた遺骨: 調査により、政宗の頭骨や四肢の骨がほぼ完全な状態で検出されました。この骨格データをもとに、生前の容貌が科学的に復元されています(身長は約159.4cm、血液型はB型だったことなどが判明しています)。 • 豪華な副葬品: 衣服や刀剣、文房具のほか、ヨーロッパ製の香水瓶や懐中時計の部品など、国際派だった政宗を象徴するようなハイカラな品々が出土しました。これらは敷地内の「瑞鳳殿資料館」に展示されており、当時の文化を間近で見ることができます。 観光情報(アクセス・散策) • 環境: 瑞鳳殿へと続く参道には、樹齢数百年の杉並木や石段が続いており、一歩足を踏み入れると厳かな空気に包まれます。四季折々の美しさがあり、特に秋の紅葉シーズンにはライトアップイベントが開催され、幻想的な風景が広がります。 • アクセス: 仙台駅から観光シティループバス「るーぷる仙台」に乗車し、「瑞鳳殿前」バス停で下車、徒歩約7分です。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #宮城県 #伊達政宗

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宮城県塩竈市の一森山(いちもりやま)に鎮座する志波彦神社(しわひこじんじゃ)は、同じ境内に並び立つ「鹽竈(しおがま)神社」とともに、古くから東北地方(陸奥国)の要として篤く信仰されてきた大変由緒ある神社です。 1. 御祭神とご利益 • 御祭神:志波彦大神(しわひこのかみ / しわひこおおかみ) • 記紀(古事記・日本書紀)の神話には登場しない、東北独自の「謎の神」とされています。 • 古くからの伝承では、鹽竈神社の主祭神である鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)の東北開発・国土平定に協力した神と伝えられています。 • ご利益:国土開発・農耕守護・殖産興業・商工業の発展。特に土地を切り拓き、産業や農業を豊かにする守護神として尊ばれています。 2. 歴史と驚きの「社格(格付け)」 志波彦神社を語る上で最も興味深いのが、歴史的な「社格の逆転現象」です。 • 平安時代の最高格「名神大社」 平安時代の律令細則『延喜式』神名帳(927年)において、志波彦神社は陸奥国100座の中でわずか15座しか指定されなかった最高位の「名神大社(みょうじんたいしゃ)」に列せられていました。この当時、鹽竈神社は延喜式に記載すらされていない(式外社)状態であり、国家的な格付けとしては志波彦神社のほうが圧倒的に上でした。 • 中世以降の衰退と遷座 もともとは現在の仙台市宮城野区岩切の冠川(現・七北田川)のほとりに鎮座していました。この地は中仙道から多賀城国府へと入る交通の要所でしたが、中世以降に周辺の戦乱などもあって徐々に衰退。一時期は地元の天王社に合祀されるほどに小さくなっていました。 3. 明治から昭和の「復興と遷座」 明治時代に入ると、その由緒の正しさ(名神大社であったこと)が再評価されます。 • 明治7年(1874年)の遷座 明治政府によって「国幣中社」という高い社格を与えられ、まずは一森山にある鹽竈神社の別宮本殿へと遷祠(合祀のような形で移動)されました。 • 昭和13年(1938年)の独立社殿完成 「名神大社にふさわしい独立した社殿を」という強い陳情と、明治天皇の思し召しもあったとされる国家プロジェクトとして、国費による新社殿の造営が決定。昭和9年に着工し、昭和13年(1938年)に現在の場所に壮麗な社殿が竣工・遷座されました。 4. 建築の特徴:近代神社建築の粋 鹽竈神社の社殿が江戸時代(伊達綱村・吉村による造営)の古風で落ち着いた佇まいであるのに対し、志波彦神社の社殿は明治・大正・昭和の神社建築技術の粋を集めた極めて華麗な造りになっています。 • 朱黒の漆塗りと極彩色 社殿全体が艶やかな朱と黒の漆塗りで仕上げられており、要所の彫刻には豊かな極彩色の装飾が施されています。一森山の緑や、鹽竈神社の素木の雰囲気とは対照的な、息をのむような荘厳さを持っています。 • 塩竈市指定文化財第1号 この昭和初期の優れた建築美と歴史的価値が認められ、昭和38年(1963年)に塩竈市の有形文化財第1号に指定されました。 5. 地名「シワ」に宿る古代の背景 志波彦神社の「志波(シワ)」という響きは、東北の古代史において非常に重要な意味を持っています。 岩手県紫波郡にある、坂上田村麻呂が築いた古代の城柵「志波城(しわじょう)」や、宮城県栗原市の「志波姫(しわひめ)神社」など、「シワ」の名は朝廷の北方拡大の境界線や、その地に暮らした先住民(蝦夷)との関わりを示す象徴的な言葉です。 記紀神話に属さない志波彦神は、国府(多賀城)の守護神であると同時に、土地の根源的な力を宿した独自の神格として、古くからこの地域で畏れ敬われてきた背景があります。 観光・参拝のポイント • ロケーション: 鹽竈神社の境内(神門を出て右側、または東参道から入ってすぐ)に位置しています。拝殿の正面からは、古くから「千賀の浦(ちがのうら)」と和歌に詠まれた塩釜湾の美しい景色を一望できます。 • お祭り(塩竈みなと祭): 毎年7月の海の日に開催される東北屈指の海の祭典「塩竈みなと祭」では、鹽竈神社の御神輿(鳳凰丸)と、志波彦神社の御神輿(龍鳳丸)の2基が、御座船に乗って松島湾を華麗に巡幸します。 鹽竈神社を訪れる際は、このドラマチックな歴史的変遷と、昭和の職人技が光る極彩色の社殿に注目すると、より深い魅力を感じることができます。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #宮城県 #塩竈市

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宮城県塩竈市にある鹽竈神社(しおがまじんじゃ)は、古くから陸奥国一宮として崇敬を集め、全国にある鹽竈神社の総本社として知られる名社です。現在は境内に隣接する志波彦神社(しわひこじんじゃ)と合わせて「志波彦神社・鹽竈神社」が正式名称となっています。 1. 御祭神と固有の配置 鹽竈神社には3つの社殿(左宮・右宮・別宮)があり、それぞれ異なる神々が祀られています。その配置には明確な意図(地政学的・信仰的理由)があります。 • 別宮(べつぐう):鹽土老翁神(しおつちのおじのかみ) • 主祭神です。「別宮」という名称ですが、こちらが本国固有の神であり、海上安全、大漁満足、そして人々に製塩法を伝えた塩の神・安産の神として信仰されています。 • 社殿は「西向き」に建てられており、松島湾や海難を背負い、陸地を守護する形をとっています。 • 左宮(さぐう):武甕槌神(たけみかづちのかみ) [鹿島神宮主祭神] • 右宮(うぐう):経津主神(ふつぬしのかみ) [香取神宮主祭神] • 東北開拓のために降臨したとされる高天原系の武神(国家鎮護の神)です。 • 社殿は「南向き」に建てられており、仙台城(青葉城)の方角から伊達藩主が遙拝(ようはい)しやすいよう、また都(南)を意識した配置となっています。 2. 歴史と伊達家の崇敬 創建の正確な年代は不明ですが、奈良時代(724年)に設置された陸奥国府・多賀城の精神的・軍事的な守護神(前線基地の祈願所)として、それ以前から存在していたと考えられています。平安時代の『延喜式神名帳』には名神大社としての記載はありませんが、弘仁式などには記述が見られ、朝廷から特別視されていました。 中世には奥州藤原氏などの崇敬を受け、江戸時代に入ると仙台藩主・伊達家から絶大な庇護を受けます。 • 藩祖・伊達政宗以降、歴代の藩主が神社の「大神主」を自ら務め、祭事を司りました。 • 元禄の造営: 現在残る壮麗な社殿群は、4代藩主・伊達綱村が元禄8年(1695年)に着工し、5代藩主・吉村の代である宝永元年(1704年)に落成したものです。 • 治世の節目に歴代藩主が名刀(太刀)を奉納する慣例があり、これらは現在も境内にある鹽竈神社博物館に多数保管されています(重要文化財「太刀 銘 来国光」など)。 3. 建築の特徴(重要文化財) 境内の主要建造物14棟が国の重要文化財に指定されています。元禄期の極めて精緻かつ壮大な伊達文化の意匠を今に伝えています。 • 表坂(男坂): 参道には202段の急峻な石段があり、ここを登りきると朱塗りの豪壮な随身門(楼門)が現れます。 • 本宮(左右宮)と別宮の構成: • 随身門をくぐり、さらに唐門(中門)を入ると、正面に「左右宮拝殿」があり、その背後に同型・同寸の「左宮本殿」「右宮本殿」が並びます。 • 右手側(東側)には、直角に交わる形で「別宮拝殿」および「別宮本殿」が配置されています。 • 構造美: 本殿はいずれも素木造(しらきづくリ)の「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。これに対して拝殿は入母屋造の銅板葺となっており、素朴な本殿と華麗な拝殿・門の対比が、元禄建築の様式美を際立たせています。 4. 文化・自然・祭事 • 鹽竈桜(シオガマザクラ): 境内に咲く、国の天然記念物に指定されている固有の八重桜です。花弁が40〜50枚ほどあり、中央の雌しべが小さな葉のように変化しているのが特徴で、4月下旬から5月上旬に見頃を迎えます。 • 松尾芭蕉の来訪: 『おくのほそ道』にて、芭蕉が「夜明けの参拝で朱塗りの垣根が朝日に映える様子に深く感動した」旨を記しています。また、藤原秀衡の三男・忠衡が寄進した和泉三郎の「文治の燈籠(神燈)」を見て、その忠義に涙したエピソードも有名です。 • 日本三奇「御釜神社」の神釜: 境外末社である塩竈市内の「御釜神社」には、4基の神聖な鉄製の釜(四口の神釜)があり、これらは「世の中に変事(災難)があるときに、釜の水の色が変わる」という伝承を持つ、日本三奇の一つです。7月には古代の製塩法を伝える「藻塩焼神事(もしおやきしんじ)」が行われます。 • 三大祭(神輿の下り): 3月の「帆手祭」、4月の「花まつり」、7月の「みなと祭」では、重さ約1トンにおよぶ黒漆塗りの御神輿が、わずか16人の担ぎ手によって、あの急な202段の石段(表坂)を一段ずつ慎重に下るという、大変迫力のある神事が行われます。 塩竈の地名の由来そのものであり、東北の歴史や伊達藩の威光、そして海・塩の信仰が重層的に結びついた、非常に格式の高い神社です。 是非参拝されてみてはいかがですか?😊 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 #日本の風景 #旅行 #宮城県 #鹽竈神社 #神社

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